カテゴリー: メーカー

  • スズキのバイクの特徴や歴史

    スズキのバイクの特徴や歴史

    戦前より自動車販売を研究してきた会社

    スズキは静岡県浜松で、木製の足踏み織り機を製造する会社としてスタートした企業です。

    創業者である初代社長は鈴木道雄で、当時の社名は「鈴木式織機株式会社」でした。
    その後は鋳造技術を取り入れて、海外からの輸入品と同じくらいの技術力のある会社となった経緯があります。

    中でもサロン編機を考案したことにより、熟練工以外でも簡単に機器を取扱できるようにしたということは、大きな成長の原動力となりました。

    織機を東南アジア地域に輸出することで、インドネシア内での織り機シェアの7割を獲得するまでになり、国内においてもビロード織機を完成させて、京都や和歌山を拠点に製造を続けたのです。

    転機となったのは1937年より軍需製造の需要が高まったことで新たに工場を建設したことでした。
    この時に浜名郡可美村高塚に作った工場は戦後本社工場となります。

    主力の織り機に変わって世の中のニーズに適合するために選んだのが自動車産業で、英国よりオースチンセブンという自動車を輸入して、それを自社内でコピーして製造しました。

    しかしながら試作機が完成して一般向け販路に載せようというタイミングで戦局が悪化をし、自動車産業は一旦中止になります。

    本格的に自動車開発を再開させたのは戦後になってからですが、戦前より自動車の研究をしてきた会社として、今もその技術力は高く評価をされているのです。

    自分用に開発した動力自転車が初代のバイク

    バイクメーカーとしてのスズキですが、実はそのきっかけは非常にユニークなものでした。

    戦後になり、創業者の鈴木道雄から二代目の鈴木俊三に社長が交代しますが、この鈴木俊三は休日に釣りをすることを趣味にしていました。

    この時に移動を楽にしたいという目的で、動力を自転車に積み込んだということが自動二輪車の開発の始まりでした。

    初代の自動二輪車は1952年に発売された「パワーフリー号36cc」です。
    しかしこのパワーフリー号は車体に対して動力部分の重量が大きく、また36ccと非常に小さい排気量であったことで、なかなか実用が難しい面がありました。

    そこでその改良型として誕生したのが、後に大ヒットとなる「ダイヤモンドフリー号」です。
    ダイヤモンドフリー号は70ccと大幅に排気量を拡大するとともに、積載量を大幅にアップしたことで多くのユーザーを獲得します。

    このヒットを受けて社名を「鈴木自動車工業」とし、同時期に軽自動車である「スズキライト」を販売しました。

    スズキダイヤモンドフリー号はその後も「フリー号」として開発が続けられ、1958年にはその後継機となる「スズモペット」を作っています。

    モペットはペダル付きのオートバイのことで、当時欧州方面で流行していたものをいち早く取り入れたのがスズキでした。

  • カワサキのバイクの特徴や歴史

    カワサキのバイクの特徴や歴史

    多角経営で生き残りに成功したカワサキモータースジャパン

    戦後間もない時期には数百と存在していた国内二輪車メーカーですが、統廃合が進んだ結果4社のみとなりました。

    その中でも最も異色な存在といえるのがカワサキモータースジャパンです。

    日本四大メーカーであるHONDA、YAMAHA、スズキはいずれも静岡県浜松市を中心に発展した企業であるのに対し、カワサキはもともと東京湾で造船業を営む中でバイク製造を開始した、という独特のルートを持っています。

    「カワサキ」という社名から京浜工業地帯の中心地である川崎市を発端にしているように思う人もいるようですが、実際は東京で開業をした企業の創始者が川崎正蔵であることから来ています。

    川崎正蔵は1837年に生まれた鹿児島の呉服商人の息子であり、若い頃は長崎で貿易と海運業を学んでいました。

    実際に船乗りとして過ごした期間もあり、その中で造船の知識を得て41歳の時に東京湾に面した川崎築地造船所を設立します。

    創業から7年後には日清戦争が起こり、この時に造船の需要が大きく伸びたこともあって一躍大企業へと成長しました。

    大規模な造船施設が必要になったことからこの時に株式会社として組織を作り、川崎正蔵は隠居をして同郷で恩のあった松方正義の三男である松方幸次郎を後継者に指名します。

    そうしてできたのが川崎造船所で、1896年に設立されてから1902年に神戸へと拠点を移して造船以外の重工業へと経営の軸を展開したのです。

    鉄道車両や客車、橋桁といったようなものも作るようになった川崎造船所でしたが、1918年には航空機工場や自動車部を作り、多くの動力機器を製造していきました。

    バイクメーカーとしては後発ながらも独自のエンジンで人気

    日本国内では1930年代頃から急激にバイクの需要が高まります。
    そこで川崎航空機もバイク製造へと乗り出し、「RSY号」という250ccバイクをリリースしました。

    その後も「明発(メイハツ)」という名前でいくつかモデルを作ることから、川崎明発工業というバイク専門会社を作っています。

    時代は1959年にホンダが世界GPに初参戦するなど二輪車の大ブームが起こっている頃で、川崎明発工業はより本格的なバイク事業へと乗り出すために技術者を東京から明石市へと招聘し、単車の製造を本格的に開始しました。

    バイクメーカーとして成功をするきっかけとなったのは、1962年に発売した125B8というモデルです。

    それまでカワサキのバイクはGPでも芳しい成績を残せず苦戦をしていたのですが、当時の技術者であった松本博之がカワサキバイクのユーザーの多い東北地方を周り、よりニーズにあったバイクをということでB8を開発したのがきっかけでした。

  • ヤマハのバイクの特徴や歴史

    ヤマハのバイクの特徴や歴史

    YAMAHAと言えばピアノ?プロペラ?

    ヤマハ発動機は、もともと「ヤマハピアノ」の製造で知られた日本楽器製造を前身として作られた企業です。

    日本楽器製造は1987年に「ヤマハ株式会社」へと社名を変更しており、そこからさらに分離独立して「ヤマハ発動機」という会社になりました。

    ヤマハの創業は1916年にオルガンの修理業から行われており、社名の「ヤマハ」は創業者である山葉寅楠よりつけられたものです。

    山葉寅楠は和歌山県で生まれた和歌山藩士であり、子供の頃から興味のあった機械関係へと進路を決めました。

    若い時期には長崎で時計作りを学んでいたということで、のちの1884年に現在の静岡県浜松市へと引っ越し医療機器の修理をする仕事に携わります。

    この浜松在住中にふとしたきっかけで小学校のオルガン修理を依頼され、そこからオルガン製造という新しい事業を思いついたのです。

    その後研究によりオリジナルブランドとしてオルガンを作ることに成功し、「ヤマハ風琴製造所」という会社を作ります。
    これが後に日本楽器製造という会社に社名を変更をすることになりました。

    オルガンは機械部分の他、木材を組み合わせて外観を作っています。
    そこから高級木工家具も事業内容としており、創業期より貪欲に数多くの事業を展開していったことがわかります。

    1955年4月にヤマハバイクの初代が製造される

    そんな多角経営をしてきたヤマハが、初のバイク製造を開始したのが1955年4月の「YAMAHA125」です。

    二輪の世界では後発に分類される時期であったことから、製造を開始した当初は「楽器屋が作るバイクだからいい音がするだろう」といった言われ方をしたこともあったようです。

    製造を開始した当初はあまりにも畑違いの製品だったことから二輪車を扱う販売店で取り扱ってもらえないということもあり、かなり苦戦をしたという記録もあります。

    そのためヤマハのバイクは当初日本楽器の支店など楽器を扱うお店の店頭に置かれていたという特殊な事情がありました。

    今も銀座にある山野楽器やその他有名な楽器店で同様にヤマハバイクを置いていたという歴史もあるほどで、既にバイクを持っている人に対しての買い替え需要を狙って広告を打っていました。

    その後バイク性能の高さをアピールするために国内GPに参戦をするようになり、当時の広告には「富士も浅間も認めたこの性能」といった文字が見られます。

    これは1950年代の富士登山レースや浅間火山レースという人気のバイクGPで優勝したということを受けており、次第に高い性能を世間にアピールすることができるようになっていったのです。

    国内市場だけでなく北米にも積極的に輸出をしており、現在も大排気量のアメリカンバイクに定評があります。